書における自らの表現は、伝統を学ぶ中で模索し続けるもの。
現代書はあくまでも伝統書の延長線上に存在するもの。
人柄を感じるような書、個性溢れる書、それは素晴らしい。
だがあなたがもしプロとして書を志す人ならば……
自分らしく書いたと言う前に、
これが自分の個性だと言う前に、
苦しいほど、逃げ出したいほど、古典を学びなさい。
書に向かうということは一生をかけて古典を学び続けることなのです。
どんな時も私のよりどころは古典なのです。
いくら古典を学び、
いくら似せて書くことが出来るようになっても、
それを超えることは出来ない。
しかしそこから新たな書表現を生み出すことは出来る。
だから書する限り、日々、古典を学ぶ必要があるのです。
書における、用と美。
美ばかり追いかけて、用を忘れる無かれ。
生活に根付いた実用書を軽視してはいけません。
日々の練習や古典の学習不足による自分の技術の未熟さを
「稚拙さ」と混同しないことです。
古典と呼ばれるものは、それが生まれ出た時代にとってみれば
それまでの時代になかった新しい要素をもっているものなのです。
言い換えればそれは当時の革新的な書だったのです。
そして多くの人々に受け継がれ、今日から見れば、古典と呼ばれるようになったのです。
伝統は常に新しい感性を取り込みながら脈々と受け継がれるもの。
スタイルだけの伝承は形骸化するだけなのです。
書における新たな創造は伝統の全否定ではありません。
伝統の精神性を自己内部に包容し、その上で新たな美を追究するのです。
お手本絶対主義が師風追従の模倣作品を大量に排出する。
落款(名前)を見なければ誰の作品かわからない
そんな没個性的作品が並ぶ展覧会はうんざりです。
書は文字性という束縛を十分認識して、あえて文字を書くものです。
その上でそれらの束縛にとらわれない自分の内面の表出を目指すのです。
書家は文字を書く。
画家は絵を描く。
写真家は写真を撮る。
ならば書家が絵を描けば、なんと呼ぶ?
写真を撮れば、なんと呼ぶ?
私はカテゴリーになんか縛られたくない。
以上は、中国の書法専門誌「書法賞評」の「現代日本の書」取材での発言より抜粋/加筆再構成したものです



